始まりの木の下で


父は最後に会ったとき、奥さんが席を立ったその後で「愛しているから、僕は愛しているから」と言って抱きしめてくれた。

彼氏は、と聞かれてできないよ私なんかに、と言ったことに対しての遅れた返事だったのだと思う。

あれから3年経ち、私のことを愛してくれた人は別で確かにできたけれど、本質的な孤独は木のウロのようにまた確かにあり続けた。

私は抑うつ状態というものに当てはまるらしい。それらが軽く生活に現れると、私は何もできなくなる。

何もできない私を好きだと言ってくれる人ができる度、私は自分のことをトウカエデのようだと思う。醜い地肌を統一性のないカサカサの樹皮を纏って隠し、皮の隙間に蛾を飼う街路樹。

地肌を覆い隠すための樹皮を好きだという人々、その人たちが褒めれば褒めるほど、醜い地肌との差が浮き彫りになる。一貫性のない自分という存在の歪さを晒しながら生きていることを、存在していることを恥じている。

樹皮が愛されるたびに、私だと認識されている樹皮を捲れなくなり、樹皮が誰かにとって大切にしたい一面であると知り、自分にとって全く価値のないそれを大切にしたいと思う。

ただそれは誰かの愛した一面に過ぎず、覆い隠した醜い地肌はその差でもっと悲惨に見えてくる。他人にとって価値があるのは地肌ではないのだ。今日は地肌から焼き殺してしまいそうだ。

あの日の彼が、何かを纏う前の私を見つめて愛していると言ってくれていたとしても、私はもう「お父さん」からの愛はとうに期待していない年齢になった。

もう取り戻せないままずっと陽射しの影を追っている。そのまま影を追い続けて、日が暮れるのを待つのか、明日が来るのを待つのか、まだ分からないけど。