あなたが不器用だったから私は生きられた

私はしたたかだった、と思う。

賢さというのは相対的なもので、私の場合、私の対極にいるのは母で、明るくておっちょこちょいな母と過ごしてきた私は歳の割にはしっかりしていた。

バーで飲んで潰れた母を目的駅で起こす毎日、みたいな年もあった。

 

二人分の生活費を作る為に夜勤に勤しみ、生活を回している母は仕事だけで精一杯だった。

小学校2年生の頃、同級生のお母さんにご飯を作らないことを怒られていた。

週5くらいで通っていた中華料理店のママは良くしてくれていて、私はそのままでも良かった。

そのくらいから、他人から見られる母親像を意識していたんだと思う。

「親はいつまで親でいなければいけないんだ」

そう、小学校5年生頃からよく言っていた。

 

小学4、5年生になってから、怒られる気配があると事前に身近な刃物をこっそり目につかないように隠したり直したりする癖ができた。ふとした拍子に死ぬかもしれないと思っていたからだ。

 

私はしたたかだった。自分が親に対して手をあげることは一切しなかった。ただ、大学生になって実家に住むようになってからも寮に入る以前と状況が変わらず、パニックを起こしたその日、警察を呼ばれる前日は携帯を壊されそうになったので抵抗した。

手を払い、腕を掴み、その手の携帯を奪い、壊せないように洗濯機の後ろに落とした。

 


寮に入る以前、小学生の頃は怒られない日が2日続けば安定していると思っていた。引っ越しをしてから高学年になって落ち着いて来ていたものが以前と変わらなくなった。会話を避けるために分厚いシリーズものの本を読んだ。彼女はネットサーフィンやネットオークションにハマっていた。週3日か4日のペースで、買った家をリフォームした会社の社長が家に泊まっていた。私たちより若い妻子がいる強欲そうな彼が家にいる。そして母は私より彼の方が優先すべきものとして扱う。

些細なことだった。お客様が話しているから私は黙れ、お客様との約束があるから私との約束は反故に、お客様と急にゴルフに行くことになったので洗濯物を頼まれたりだとか。夜中は「お互いが行き来しやすく仲の良い家族像」を反映させたドアのない隣部屋で不快な音が鳴った。彼がいる方がマシだった。いなければ大体私は怒られていた。静か歩け、丁寧に椅子をひけ、姿勢を正しくしろ、そうして、歩けなくなるくらい怒った。そのストレスのせいか、たまに動けなくなるほど、鋭い胸の痛みがあった。血が溜まった手で拳を握ったときの、皮膚がはち切れそうなあの感覚がもっと小さく縮小されて起こったような感覚だった。

受験を考える歳になって、父の家にいけないか考えていた。母の再婚の話が出たので、中高と寮生活を選んだ。休暇も講習を受けて最低限しか家に帰らなかった。高校の卒業式後に浮かれた母がお互いもう大人になるんだからうまくやっていけるかもね、と言った言葉に期待していた。

大学生になっても変わらない状態を見て将来もずっとこうなのだろうと思った瞬間に糸が切れた。

私は何を頼りに、希望に生きればいいのか分からなくなった。いつも通り荷物を私のキャリーにぐちゃぐちゃに詰めた後にゴミ捨て場に捨てに行った母を鍵を掛けて外に締め出した。

 


その日の夜は眠れなかった。ずっとネットでアザだらけの体を中継しながら言葉を発さずに泣いていた。

 


先日、インターネットカフェで私の名前の由来になった漫画と同じ作者の別のミステリー漫画を読んでいた。

その中で、「殺す選択肢のあるものは殺される選択肢がある」という言葉があった。私は、あの家でいつか母を殺していたかもしれない。殺されていたかもしれない。殺していてもいなくても、相手に傷がつかないように、私が悪くない証明として今まで何も手を上げずに生きていた。さながら罪を透明にするように。

21.7.2昨日の昼も素麺だった。

夏場は素麺が安定して高い頻度で出てくる。

安くて、簡単で、美味しい。食事としてこの上ない。

 

くるりとトングで掴んだまま巻かれたざるの上の素麺の列。短冊に切られたきゅうりには最初の方の濃い麺つゆがちょうど良くて、錦糸卵には少し辛く感じる。茗荷と麺つゆが香り、唇に小さくなった氷の欠片があたる。夏らしく愛おしい。

 

僕の彼女はときどき奇妙な動作をする。

素麺に関して、というか今回も理解できない動作をしていた。

彼女は、毎回冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーの口を開け、麺つゆと間違えていないか確認するために鼻を近づけて香りを嗅ぐ。

割と頻繁に素麺を出す我が家では夏場、麺つゆ専用のピッチャーがある。その動作は変ではないが、毎度やっているそれは馬鹿馬鹿しかった。

一度お茶を飲もうとして、間違えてめんつゆを注いでしまった、と話した彼女は冷蔵庫から取り出す度にそうしている。ラベルを貼ればいいのに、と言った僕に、彼女は茶渋で汚れていくのが嫌だから、と返した。

 

冷蔵庫を開けて中身を確認する彼女はきっと、そのコントのような流れが面白いと思っているのだろう。だから貼らないのだろうと確信している。

 

一度したおかしな失敗を繰り返さない為に意識的に動作を繰り返すことが可笑しくて面白いのだろう。

お父さんへ

お父さんへ

 


お久しぶりです。


あれからお元気にお過ごしですか?

 


私はあの後、アルバイトと住まいを転々とし、ようやく今年から●●●の●●として働いています。

まだまだ先行きの見えない不安はありますが、出会ってきた方々のおかげで、こうして気持ちも前向きに報告できるくらいのスタート位置に立てました。

 


これからは自分がすることを誇り、そしてその誇りを支えに、これから時間を共有していく人たちに、私が手を差し伸べたいと思ったときに手を差し伸べられるよう、力をつけるために働いて生きていきます。

 


以前会って二人になったとき、お父さんとの会話のなかで、「彼氏はいないの?」と聞かれ、私が「私なんかにできないよ」と返したことがありましたよね?

その後見送りの車の中で、「僕は愛しているから」と、そのようなことを言ってくれたと、私は記憶しています。 

そして、お父さんは、人は誰といても孤独だとも言っていました。

お父さんの言うとおり、人はずっと孤独です。そして寂しい。誰かの愛を感じてからは、もっともっと孤独です。お母さんの寂しさは、お母さんとしてではなく、●●ちゃんとして見ていられたら良かったのかもしれないと思います。お母さんは好きですが、●●ちゃんのことは好きではなかったので。

 


あれから、色々な方と出会い、私を愛してくれる人を確かに見つけました。私の不安定による関係のアンバランスさが原因で大抵上手くいかなくなるのですが。

そうやってうまくいかなくても、ひとりでも、どんなに孤独を感じても、お父さんの愛しているという言葉が私に希望を与えてくれていました。最後までお父さんとして接してくれてありがとう。


誰かと別れるとき、いつも「愛されたことがないんだろうなって思ってた。」と言われます。最近人と別れだことをきっかけに、愛される基準や真意を探るのはやめて、ただ相手がしてくれたこと、その事実を愛としてみることにしました。

そう考えると、私はずっと愛されてきていました。


読んでくれてありがとう。

愛しています。

 

●●●ちゃんとお元気でお過ごしください。

始まりの木の下で


父は最後に会ったとき、奥さんが席を立ったその後で「愛しているから、僕は愛しているから」と言って抱きしめてくれた。

彼氏は、と聞かれてできないよ私なんかに、と言ったことに対しての遅れた返事だったのだと思う。

あれから3年経ち、私のことを愛してくれた人は別で確かにできたけれど、本質的な孤独は木のウロのようにまた確かにあり続けた。

私は抑うつ状態というものに当てはまるらしい。それらが軽く生活に現れると、私は何もできなくなる。

何もできない私を好きだと言ってくれる人ができる度、私は自分のことをトウカエデのようだと思う。醜い地肌を統一性のないカサカサの樹皮を纏って隠し、皮の隙間に蛾を飼う街路樹。

地肌を覆い隠すための樹皮を好きだという人々、その人たちが褒めれば褒めるほど、醜い地肌との差が浮き彫りになる。一貫性のない自分という存在の歪さを晒しながら生きていることを、存在していることを恥じている。

樹皮が愛されるたびに、私だと認識されている樹皮を捲れなくなり、樹皮が誰かにとって大切にしたい一面であると知り、自分にとって全く価値のないそれを大切にしたいと思う。

ただそれは誰かの愛した一面に過ぎず、覆い隠した醜い地肌はその差でもっと悲惨に見えてくる。他人にとって価値があるのは地肌ではないのだ。今日は地肌から焼き殺してしまいそうだ。

あの日の彼が、何かを纏う前の私を見つめて愛していると言ってくれていたとしても、私はもう「お父さん」からの愛はとうに期待していない年齢になった。

もう取り戻せないままずっと陽射しの影を追っている。そのまま影を追い続けて、日が暮れるのを待つのか、明日が来るのを待つのか、まだ分からないけど。

ルーティーン

私の家でのルーティーンは、だいたいがテレビのリモコンか携帯電話で始まっていた。

 

まず一番初めに、ライター、携帯、リモコンが頭か腕のどこかにあたり、それから母が机を叩いた後に立ち上がる。なんで口をきかないのか、聞こえているのか?と聞かれた後にお腹か脚が蹴られるか、頭を叩かれるか、髪を引っ張られるかしてバランスを崩す。

その後散々床に丸まっているのを蹴られて、息が切れてきたら、本棚に並んだエル・デコや、祖母が買ってくれた児童書、教科書で叩かれる。段々殴られる感覚が同じになってきた頃に机や棚や、クローゼットの中身を私に投げて大方出した後、ゴミ袋に詰めて捨てに行く。

その後も気が済むまでちょくちょく蹴られ殴られ、分かったのかどうなのか確認がある。

折角綺麗に使っていたのにな、という気持ちでゴムがキツく擦れた跡のついた教科書やエナメル製の鞄、破れたプリントや、折れたものや割れたものを眺めながら、元の位置に戻した。

 

そのまま怒りがおさまらなくて出て行けと言われた日には、朝までぽつぽつ手を動かしながら床で体育座りをしたままうたた寝をした。長引いて学校に遅刻したこともしばしばだった。

 

家出をしてから自由勝手に、気ままに暮らしてきた。他人の家に居候させてもらって、転々としてきた。3つ前の居候先から追い出されたとき、母と同じことをその人はした。一緒に暮らす前にどんなふうだったかをその人に言ったことを思い出した。

その人は、私の荷物を同じように雑にキャリーに詰めた後で、螺旋階段から全部中身をひっくり返した。特に体重計はすごい音で落ちていって、ステップの先についている滑り止めのゴムの軌跡が通っていた。彼は持ち帰ったキャリーを蹴りながら、「何をチンタラしとんねん、不法滞在で警察呼ぶこともできるねんぞ」と言った。私は手を動かしていたが、全然頭が働いていなかった。

 

私は私を棚に上げて、他人って他人にそういうことできるんだなあと思った。

なんとなく生々しいから、以前も話していなかったけど、住まわせてくれる他人に過去を話すことはしないほうが良いのだと学んだ。

でも今も他人の家で居候をしている。

 

本当は生活保護を受ければ良いけど、家族に通知が行くことを避けられないのと、障害者手帳を取ると自分が送りたい生活を送れなくなる可能性があるからだ。

折角今が一番楽しくて楽で、生活を阻害するなんらかの症状だって今が一番マシなのに諦めたくはない。

正社員として働きたいが、何もない3年のブランクと何も頑張ってきたことのない私、そして紹介されるものは皆無期雇用派遣。諦めてしまえばとっても楽だと思う。